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かつて子供だった大人、やがて大人になる子供



昨日辺りから、Twitterでこんな話題が盛んに行われていた。似たような経験をした人は多いようだ。それを見て、いろいろと考えさせられることがあった。

こういう話を聴くといつも思い出すのが、小学校の卒業文集用に将来の夢を書かされた時のことだ。マジシャンと書いて出したら「こういうふざけたことを書くものではない。まじめに書きなさい」とクラス全員の前で言われて再提出を命じられた。

おそらく、「マジシャン」は先生の価値観に照らして「まじめな将来の夢」からは外れていたのだろう。それ自体、解せないことではあるが、それ以上にこの対応は未だに理解しかねている。児童の発言が自分の常識や価値観から外れたことだったとしても、まずはそれを肯定的に捉えて何故その子はそういうことを言ったのか、と考えてみることが必要ではないか。反射的に否定して自分の考える正解を押し付けるだけというのは、教育者の態度ではないと思う。

なお、その後、先生の言う「まじめな将来の夢」に沿うようにふつうの会社員と書いて出したら、後で問題になったのか、呼びだされて丁寧なフォローが入った。先生も間違うことがあるし、それを認めて謝ることもあるのだと知って、当時は衝撃的な出来事だった。

先生もかつて子供だった一人の大人に過ぎないのに、絶対的な正しさを身につけているように思われてしまうというのも不憫な話ではある。実際、当時は自分と全く異なる存在のように見えていた。単なる可能性としてさえ、自分の成長した先に彼らのような存在があるとは思えなかったという意味で。

子供は小さな大人ではないが、大人は大きな子供であり得る。それは子供と大人との変化が成長という一方向のものに依る限り、当然のことだけど、だからこそ大人はそれを実感できても子供にはできない。実感できるはずの大人がそこから目を逸らせば、自分の価値観を刷り込むだけの対応に終始してしまうと思う。誤りが正されない恐れもあるし、仮に内容が正しくても方法として適切ではない、という事態が起こりかねない。想定外の児童の発言に触れた時も、自身に対する批判的な目を持ち続け、児童とともにそれを検証するくらいの態度が、教育者には必要なのではないかと思う。

もちろん、自身の指導計画に沿わないと困ってしまう、というのはわからないでもない。そのあたりが、教育者でありかつ指導者でもある先生という立場の難しいところなのだろう。しかし、一つの正しさを刷り込む前に、可能性としては多様な答えが出され得ることを認めた上で、まずは児童自身の選択を尊重するというのは大切なことだと思う。個性も主体性もない従順な機械に育てるのではないのだから。
  1. 2015-10-02 Fri 15:58|
  2. 思考メモ

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