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夏目漱石『行人』

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの三つのものしかない」


夏目漱石の『行人』は僕の好きな小説の中でかなり上位に入ります。
いや、「好き」というとちょっと語弊があるかもしれません。
好きか嫌いかという問題ではなくて、グリグリと心の敏感な部分をえぐられていつまでも忘れることのできない作品、とでも言いましょうか。
ううん……わかりにくい表現だ。
とにかく、以下この作品についてレビューめいたことを語ってみます。

さて、漱石の作品にはありがちですが、これも前半はなかなか話が先に進まず、引っ張って引っ張って後半に続いていくタイプの小説です。
「結論を先延ばしにして読者の興味を引き付ける手法」と評されますがせっかちな人は途中で嫌になるかも知れません。
でも、話の全体像がぼんやり見え始めてからはどんどん引き込まれるはず。

僕が初めてこの作品を読んだのは高校の時です。
今もそうですがその時は本当に主人公の一郎(兄)に共感しました。
それは、自分の日頃考えているようなことを的確に代弁してくれていたからです。

こんなことを言うと、「中二病」とか「思春期」なんていう言葉であっさり片付けられてしまいそうですが、その頃は冒頭にかかげた一郎のセリフのような考えを本気でもっていました。
ですから、同じ意味での孤独に苦しむ一郎には、生まれて初めて自分と同じ生き物を見つけたような親しさを感じました。
その親しさはとりもなおさず作者・漱石に対する親近感でもあります。
なぜなら一郎の苦しみは作者自身の苦しみだからです。

最近この作品についていくつかの評論を読んでみましたが、そのどれもが作品の主題を「妻を信じられない夫・一郎の苦しみ」としていることに驚きました。

僕自身は上記のような共感もあって「知の苦しみ」こそが主題に他ならないと思っていました。
『行人』は途中でいったん執筆を中止して、最終章「塵労」を後から付け加えた作品です。
ですから途中で主題が変わってしまっている失敗作と言われることもあります。
が、僕にはそう思えません。
最終章で一気に語られる一郎の「知の苦しみ」が根幹にあって、作品の最初から最後までを一貫してつらぬいているように思えます。
妻を信じられないという問題はそこから派生する枝葉にすぎません。

同じ作者の『彼岸過迄』のようにいくつかの短編をまとめて一つの作品にしている、とも言われますが、それもちょっと疑問です。
むしろ各章の話が一直線に「塵労」での一郎の告白へと流れ込んでいるように思えます。

僕が一番不思議に思うのは、たくさんある批評文の中で最終章「塵労」について詳しく語っているものがあまり見られないことです。この「塵労」こそ漱石の思想が最も現れている部分で、重視しなければいけない部分ではないでしょうか。
むしろこの部分は、作者の思いを入れすぎてしまったと言える位かもしれません。
行人という作品を読みとくに、この章を無視しては全く軽いものになってしまいます。
この章があってこそ『行人』は、何年たっても頭の中にこびりついてことあるごとに思い出される作品となりうるのでしょう。

このようにいろいろと議論の多い作品ですが、対象としては大学生が読むととても思う所のある作品だと思います。
あるいは彼氏・夫が自分にかまってくれないという女性が読んでもいいかも。

興味のある人はぜひ読んでみてください。
新潮や岩波の文庫本で簡単に手に入りますし、青空文庫にも入っています。







◆追記

僕は新潮文庫版をもっているのですが、新潮版は注解がおせっかいすぎる!


塵労…あれこれとつまらぬ日常のことに心を労し、汚すこと。仏語。


これはわかります。こういうのは必要だと思います。でも…


あの一件…「あの一件」に含みをもたせながら、なかなかその「一件」の内容を明示しない。

とか

お兼さんの愛嬌…善良で庶民的で、ちゃっかりもしている岡田・お兼夫婦の、くったくのなさそうなさまを読者に印象付けておいて、のち、その反対の一郎・お直夫婦に転じていく。


これは注としてはやりすぎ(笑)
語注じゃなくて解説で言う内容です。
映画みてる最中に横から「あれはね〜」といちいち解説されるみたいで興ざめです。
語釈だけで十分じゃい!(;^^)
  1. 2010-03-30 Tue 01:02|
  2. 文学

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