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読んだ小説等の感想

クッツェー『夷狄を待ちながら』
遠藤周作『海と毒薬』
モーム『月と六ペンス』
峰月皓『天使のどーなつ』

の四冊。
感想を書いていないものが貯まってきている……。

クッツェー『夷狄を待ちながら』(集英社文庫)
辺境の民政官を務める「私」の一人称小説。タイトルからベケットの『ゴドー』を連想する向きもあるが、本作の夷狄は具体像が描かれ、現に登場もする。カヴァフィス詩を想起する程度に留めるべきだろう。語られるのは「夷狄を待ちながら、自らの魂を鎮めつついかに最後の幾年を過ごしたかという物語」(pp.340-341)だが、「私」が記したのはそれではないと言う。つまり、この作品自体は作中に位置づけられない。読者は作中現在に投げ出され、「どこまで行っても際限がなくなる」正義(p.242)に照らした判断を絶えず求められている。



遠藤周作『海と毒薬』(角川文庫)
読んだらずーんと暗い気持ちになったなあ、という父の言を聞いて避けていたけど、ようやく読んだ。なるほどそんな読後感。この内容で、この終わり方。暗い余韻が残るのも宜なるかな。それはまた、懲役二年で済んでしまった勝呂医師に焦点が当てられているからこそかもしれない。償いの対象はもはやなく、裁きも罪悪感を拭ってはくれない。読後、翻って勝呂の人生を思う時、「世間の罰だけじゃ、なにも変らんぜ」(p.178)という戸田の言葉が重く響く。



モーム『月と六ペンス』(新潮文庫)
これを読んで思い出したハンスリック『音楽美論』の一節をはじめに掲げておく。

「あらゆる音楽作品の性格は作者の性格と「連関」を持つことは確かであるが、美学者にとってはかかる連関は姿を見せていないのである。――あらゆる現象の間の必然的連関性のイデーはこれを具体的に証示しようとして時に戯画といってよい程に誇張される。このような研究の方向は刺戟的魅力に富み、才智を顕示することができるからして、かかる方向に逆い、「歴史的把握」と「美的判断」とは異ったものであることを公言するのは、今日真に英雄的態度を必要とする」
(ハンスリック、渡辺護訳『音楽美論』岩波文庫、1960年、p.98)

さて、本書において「僕」は、画家ストリックランドの人生に位置付けてその最後の作品を評価している。直接見ていないから、というのも勿論あろうが、「その絵の中にこそ、彼が人生について知り、かつ望見していたいっさいのものを語りつくしていた……彼の一生は、すべてそのための苦しい準備でしかなかった」(pp.347-348)といった言は、作家としての名声がなく作品自体も評価されなかったストリックランド生前の状況を、結局のところ脱していない。ストリックランド自身が見出した美は自身の人生という文脈に依るものではなく、作品に対する作者自身の目と多くの鑑賞者の目とは、元よりその基準を異にしているのだ。作品自体を純粋に評価したのはダーク・ストルーヴ(p.116ほか)、キャプテン・ブルノ(p.319)、ドクトル・クトラ(p.345)の三人のみであった。冒頭に触れられた多くのストリックランド評を、本人が見たら何と言うか。おそらく一笑に付して省みるまい。「画家の記念碑は、あくまでも作品だ」(p.14)などと嘯きながら本書を記した「僕」に対しても、ストリックランドは再び言うだろう。「驚いたセンティメンタリストだね、君は」(p.250)、と。

※ページ数は昭和63年54刷改版による。



峰月皓『天使のどーなつ』(メディアワークス文庫)
ドーナツ開発部の灰庭留衣を中心とした三人の女性社員の奮闘を描く。ただドーナツだけを愛し、開発部以外の社員には興味も抱いていなかった留衣が、次第に人間関係を広げ、会社のために動きだす。……というと社畜形成の話に聞こえてしまうかも知れないが、あくまでこれは留衣の自己形成であり、本作はそれを描く教養小説。とはいえドーナツは単なるマクガフィンではない。留衣のドーナツ愛が読者に感染すること必至。
  1. 2016-09-18 Sun 03:13|
  2. 読書メモ

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