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解釈するということ

ある作品についての解釈を示すと、「でも作者はそこまで考えていたのだろうか」という疑問を投げかけられることがある。
もっともな疑問だ。解釈を通して、巧まれた仕掛けや練られた構成を明かせば明かすほどに、その疑問は生まれるだろう。

「作者はそこまで考えていたのだろうか」。

しかしはっきり言って、その疑問は無用だ。
なぜなら解釈とは「著者と同程度に理解しなければならず、そして、著者よりも良く理解しなければならない」(※1)ものだから。
解釈についてのこの原則は、なぜ正当性をもつのか。それはシュライエルマッハーの次の言葉に最も明確に現れている。

著者たちは、その言語について、あくまで不明確な意識しか有していない。それゆえに人は、いつも確定的なものを勘定に入れなければならない。※2

人が何かを書いたり話したりする時、そこに用いる全ての言葉や、それらをもって組み上げる全体の構成を、必ずしも意識しない。ある構想のもとに築かれたそれはある種の天才的所産であり、意識的なものと無意識的なものとは混在する。しかし、そこにできて現に在る作品を解釈するにあたっては、作者において無意識的であったかもしれないそれにも、意識を向けざるをえない。仮に無意識的なものがどれであるか同定できたとしても、それらを無視しては全体を読むことにはならないからだ。

もちろん、何らかの手段によって、意識的であったものを指摘することができるならば、それはそれで有意義なことだろう。しかし作品が紡がれるその瞬間の作者の脳を解析でもしない限り、結局のところ可能性と蓋然性によって語るほかない(もちろん可能性の有無や蓋然性の高低を示すことは、解釈を方向付ける有効な手段であるが)。その意味で解釈は、究極的には、かつて生成され現に在る作品それ自体に対うことであらねばならない。「恒久的に固定された生の表示の、技巧的な了解のことを、私たちは、解釈(Auslegung)とよぶのである」(※3)。

シュライエルマッハーの立てた原則について、ガダマーの語ることが参考となる。

再生産はつねに生産とは本質的に異なる。こうして、シュライアーマッハーは、作者を作者自身が理解していたよりもよく理解することが大切だ、という命題にたどり着いた。[中略]彼は理解という行為を、生産を再構成することと見なした。再構成する際に、作者には無意識のままであった多くのことが意識化されざるをえない。シュライアーマッハーは明らかに、この定式によって、まさに天才美学を一般解釈学へと転用したのであった。[中略]外国語テクストの言語的理解を学ぶ者は、文法規則とこのテクストの構成形式を明確に意識することであろう。ところが、著者はその言語や技法のなかに生きているので、文法規則やテクスト構成法に従いはしているものの、意識はしていない。同じことが、原則的には、真に天才的な生産と他者によるその受容についても言える。[中略]ここからまた、――解釈学がけっして忘れてはならないことであるが――作品を作り出す芸術家は自己の作品の適切な解釈者ではない、という帰結が導かれる。解釈者として著者がもつ権威は、受容する立場にしかおかれていない者の権威を原理的に超えることはない。[中略]作者の反省的な自己解釈ではなく、作者が意識していない意見こそ理解されるべきことであるゆえに、解釈者が作者に自らを同等化することがこの理論によって正当化されるのである。シュライアーマッハーがその逆説的な定式によって言おうとしたのは、このことにほかならない。※4

解釈者にせよ、批評家にせよ、あるいは国語教育者にせよ、自分のやっていることがどのような原則のもとに正当な行為たりえているのか、心得ておきたい。



※1 シュライエルマッハー『解釈学の構想』(久野昭・天野雅郎訳、以文社)、p.79
※2 『解釈学の構想』、p.105
※3 ディルタイ『解釈学の成立』(久野昭訳、以文社)、p.105
※4 ハンス゠ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅱ』(轡田収・巻田悦郎訳、法政大学出版局)、pp.317-319
  1. 2016-12-01 Thu 01:07|
  2. 雑記

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