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短歌の現在 : この、口語の時代に。

旅行記の残りは、面倒なので文学関連の話が少ないので、書きません。
もともと、「黄泉の国に行ってきます!」としか書いてなかったからいいよね!


ってことで本題へ。

今月号のユリイカが「10年代の日本文化のゆくえ」という特集を組んでいる。
その中で、穂村弘氏が「短歌の現在」というコラムを寄せている。
興味深く読めたので、これを踏まえつつ、現在の短歌界について自分なりに思うことを書いてみる。

まず、昨年の短歌研究新人賞選評での佐佐木幸綱氏の発言を記しておく。

「完全に口語の時代が来たなという、全体的な印象を持ちました。」

この発言は、穂村氏も今回のコラムで触れていたが、他にも最近の短歌誌の中で何度か引用が見られた。
これだけ引用されているということは、それが短歌界にとって比較的大きな出来事であり、また、その発言に対してこれといった疑問も抱かずに同意できるだけの状況に、現になっているということを意味する。

しかし、現在流行の口語短歌は、『サラダ記念日』の口語短歌とはまた違う、と僕は思う。
むしろ、流れとしては穂村弘に連なるものだろうと思う。
もちろん、時期的に俵万智が先で、穂村弘が後という認識ではない。
(「サラダ記念日」が角川短歌賞を受賞した年は、穂村氏の「シンジケート」が次席だった)

歌集として超異例の200万部を超すベストセラーになった『サラダ記念日』は、時代が口語短歌へ向かうはっきりとした道筋をつけた。
しかし、ついに口語短歌が根付き、その口語という新しい枠の中で様々な方向性が模索された時、より先端を行く波となったのは穂村弘の歌だった。
穂村氏の歌は10年くらい時代を先取っていたと思う。
個人的な印象としては、寺山修司が口語短歌を読んだらこんな感じではないかな、と思っている。

極めて個人的なことを言うと、僕は現在流行の口語短歌が嫌いである。
しかし、穂村弘の歌は好きだ。
この論理はいささか奇妙に聞こえるかもしれない。
現在の流行が穂村弘の流れを組んでいると言っておきながら、その一方は嫌いでもう一方は好き、というのだから。

これはとても説明しづらい。
絵画で例えるならば、「印象派は好きだけれどそれ以降の現代アートは嫌い、アクション・ペインティングやハプニングなんてもっての外!」というような感じなのだが……伝わるだろうか。

要するに、現今の口語短歌は「アイディア勝負」「奇抜合戦」に偏りすぎているように見えて、厭なのだ。
今の時代、平易で、誰でもが共感し、愛吟するような短歌は、見向きもされない。
そうした風潮が嫌いなのだ。
ことばの美しさや力強さといった概念は全く無視され、ひたすら原石集めに夢中になり、ひとつ原石を見つけたらそれを磨こうともせず放り出し、また次の原石を探し始める。
こうした作歌姿勢が気に入らないのだ。

穂村氏が指摘している、添削に対して不満そうにするという新世代歌人の特徴は、まさにそうした状況のあらわれだと思う。
一文字一文字の言葉に向かう真摯な姿勢が失われて、思い浮かんだその瞬間のイメージにのみ最大限の価値が認められているということだろう。

もちろん、思いつきやアイディアは大切である。
しかし、それらを十分に活かすためには、しっかりとした土台や、歪みない骨子が必要不可欠だ。

かつて斉藤茂吉は、萬葉集を学べ、と言った。
時間がないなら、巻一、巻二だけを反復して学べ、と言った。
もっと時間がないなら、巻一だけでもいいからしっかり学べば、それを大体の定跡と考えて良い、と言った。
この「定跡」を体得すれば作歌力量はずんずん伸びる。
逆に体得しない者は、形態が崩れていつまで経っても素人の域を脱することができない。いわゆる「お素人がた」の境界で、甘やかされて、独善に彷徨しているに留まることになる。
こう言った。

たとえ口語短歌の世になろうとも、定跡とされる歌を学ぶことは無駄ではない。
むしろ、よい発想をもった現今の歌詠みこそ、骨子を鍛えて、言葉を磨くことを覚えれば、この先千年の世に愛吟される歌を生み出すことだってできるのではないか、と思う。

鮮やかすぎるものは目に痛い。
淡白なものはつまらない。
焦らず、偏らず、自分の心と言葉とにゆっくり向き合うことが大切だと思う。
  1. 2010-09-03 Fri 17:47|
  2. 文学

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