スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

  1. -------- -- --:--|
  2. スポンサー広告

現代詩手帖6月号「ゼロ年代の短歌100選」に思う

先日、ユリイカ9月号「10年代の日本文化のゆくえ」を読んで思うことを少し書いたが、それに関連して現代詩手帖6月号「短詩型新時代」を読みなおしてみた。

その中の「ゼロ年代の短歌100選」を読んで感じたのは、なによりもまず、齋藤史や竹山広といったゼロ年代に「詠い終えた」歌人の偉大さだった。


ぐじやぐじやのおじやなんどを朝餉とし何で残生が美しからう   齋藤史(『風翩翻』)

要介護などと認定さるるとも俺はいきるぞよろしいか妻   竹山宏(『眠つてよいか』)


なんというか、心の奥底の魂の中核を、すっと外に詠み出す感じ。
詠んでも詠まなくても生きる上でなんら差し支えない言葉遊び、というような歌では決してない。
それでいて、心ばかりが先行して言葉足らず、ということも無い。
個人的な好みもあるかもしれないが、100選の他の歌とは明らかに格が違うように思えた。
人生の厚みだろうなあ。

さて、そのお二方とも、つい最近亡くなられている。
その亡くなられたお二方の歌が、「ゼロ年代の短歌」の中でこうして光を放っている。
何が言いたいかというと、どうもこれらの歌が「これからの10年代を担う皆さん、しっかりたのむよ!」と言っているように聞こえるのだ。
なんというか、背筋が伸びるね、これを読むと。
  1. 2010-10-15 Fri 16:23|
  2. 文学

<<新しいエントリ| トップ | 古いエントリ>>
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。