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Twitterは詩歌を作るか 〜つぶやきと詩の接近〜

最近はTwitterに呟く頻度が高くなってきて、ようやく使い方がわかってきた感があります。

それとともに、だんだんと「つぶやき」の位置づけについて考えなければいけないように感じてきました。

また、Twitterを通じて「短歌とは何か、短歌である必要は何か」という問題を再考するきっかけにもなっています。

考え始めれば様々な問題が挙げられますが、現時点で僕が感じていることなどを、すこし整理してみようと思います。

TwitterのTLを見ていると、時々、そのまま本にして出してしまいたいようなポエティックなツイートを見かけることがあります。
もちろん、ツイートしている本人たちは、それが詩だとも短歌だとも言っていません。
でも、もし本人が「これは自由律短歌ですよ」と言ったら、たちまち短歌になってしまう、そんなツイートがあるのです。

或いは本人がそう言わなくとも、読者によって「これは素晴らしい自由律短歌だ」と判断されれば、それは短歌として扱われることにもなるでしょう。
そういうことが大いに起こりうるような呟きがたくさんあるのです。

そもそも140字という制限が、既に短詩型の枠を作っているとも言えるかもしれません。そう考えれば、ここに投下された言葉は、発言者の意思に関わらず、作品となりうる土壌ができているとも言えるわけです。

今年出版された穂村弘さんの新刊『絶叫委員会』は、こういう問題を考えさせてくれるとてもタイムリーな作品であると僕は思っています。
街にあふれる、「偶然生まれては消えてゆく無数の詩」を穂村さんの感性で紹介している本です。
なにげない一言、というのは本来、「偶然生まれては消えてゆく」ものでした。
しかし、Twitterの普及によって、これまで一瞬輝いて消えて行っていたはずのなにげない一言が記録され、広まり、評価される、という今までなかったようなことが起きているのです。
これは、多少なりとも言葉というものに意識的に関わっている人間なら、無視できない現象です。
「なにげない言葉」が「詩」になるという奇跡的(だった)現象が、今、あちこちで起こっています。

詩として作られたものでない言葉が詩として扱われるという現象は、美術で言う所の「美術館の権威」のような話につながると思うのですが、それだけでは説明できない、もっと新しい要因があるような気もします。
とりあえず今これらのツイートをどう扱えばいいのか、僕には判断がつきません。
きっと、この問題を感じとっているのは自分だけではないでしょう。
いずれユリイカか詩手帖あたりが扱ってくれるのではないか、と個人的には思っています。
或いは文フリかポエケットなどで。


今のところは、現時点での状況整理だけにとどめておきます。
また何か新しい動きがないか、興味深く見守っていようと思います。
  1. 2010-11-08 Mon 18:49|
  2. 文学

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