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麺麭と薔薇

芸術と生活とか、芸術至上主義とか、そういう話をするときによく「麺麭と薔薇」の例えが使われる。
薔薇は芸術を指す。それだけでは言い尽くせていないように思うが、他に良い言葉が見当たらないのでそう言っておく。
麺麭は芸術ではないもの、つまり、実際の生活やら、功利やらといったものを指す。
麺麭の代わりに芋、薔薇の代わりにダイヤモンドなどが使われることもある。
しかし、何を用いるかは大した問題ではなく、それらをどう位置づけるかが問題だ。

個人的には、芸術至上主義というのは「パンを完全無視して薔薇だけを見る」という視野の狭い態度であってはならないように思う。
パンを否定するのはあくまで薔薇のため。
もし薔薇のためにパンが必要なら、進んでパンを受け入れる。
パンを重視することはしないが、かといって無視するのでもない。
花ばかりに目をやって、薔薇が薔薇であるところの条件には目もくれないようでは、暴力的な芸術しか生まれないのではないか。
そんなものは花でも何でもない。

と、僕は思う。



さて、能書きは短く切り上げて、諸氏が麺麭や薔薇をどう扱っているか、例を挙げておく。



テオフィル・ゴーチエ『モーパン嬢』

花のない世界を望む人がいるだろうか?私だったら、薔薇を残してジャガイモを諦める。

真に美しいものは、何の役にもたたないものに限られる。有益なものは全て醜い。何らかの欲求の現れだからだ。

私は、半ズボンを売って指輪を買い、パンを売ってジャムを求めるような男だ。



夏目漱石『それから』

麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。

あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる

もし馬鈴薯が金剛石より大切になつたら、人間はもう駄目である




吉原幸子「パンの話」

まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです

飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる

パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください



意味は違うが、聖書の以下のような話も全く無関係ではないのかもしれない。


「マタイによる福音書」第四章


さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

  1. 2010-12-13 Mon 22:13|
  2. 文学

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