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文庫の表紙

本屋をぶらぶらしていたら新潮文庫の啄木歌集の表紙が変わっていることに気づいた。
奥付を見ると、平成20年の印刷とある。
どうやら気づかないうちに変わっていたようだ。

新潮社・書籍詳細ページ 『一握の砂・悲しき玩具』―石川啄木歌集―


綺麗な砂浜の写真になった。
たぶん『一握の砂』の冒頭10首のイメージなんだろうけど、前のモヤモヤした緑の表紙に慣れている自分はちょっと寂しい気持ちになってしまう。

そもそも、歌集全体を見れば、決してああいう写真が似合う雰囲気ではないと思う。
砂浜の写真にするにしても、歌に詠まれているのは、

いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに

ひと夜さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何の墓ぞも

砂山の裾によこたはる流木に
あたり見まはし
物言ひてみる

というように、漂着物やらゴミやらも落ちている砂浜。あの写真のようにキレイキレイした清潔な印象を受ける砂浜ではない。

最近のブームの影響でこういった近代文学が読まれるのは良いことだと思うが、そのマーケティングの過程で作品のイメージが改変されるのは、見ていてとても寂しい思いに駆られる。特に、汚ない部分には触れずに、除菌・美化されたカッコいいイメージだけを売りだそうとする風潮は良いことばかりとは思えない。

この啄木歌集などは、まだかなり軽いほうで、中也や太宰の美化っぷりを見ると、さすがにちょっとやり過ぎだろうという感じがする。そういう「読み」もできることは確かだし、そういう「読み」を解説した本が出てくるのは大いに結構なことだと思う。だけど、だからといって原作の本そのものをそれで売りだしていってはダメだと思う。それではひとつの「読み」を読者に押し付けることになってしまい、他のイメージが生まれる可能性を全て刈り取ることになる。

ここ数年の文庫における近代文学作品の表紙の急変化を見ていると、どうも偏った見方をしているというか、わざと特定の趣向を持った読者に限定した見方しかしていないように思えてしまう。もちろん、普段そうしたものを読まない人が思わず手に取るような導入剤、ということでは良いと思うが、先に読み終えた者としてはやはり作品そのもののイメージとは違った物のような気がしてしまう。

個人的なことを言えば、ただ単純に、変わっていくことが寂しい。新たな読者を開拓するために新バージョンを出すのは良いが、これまで通り作品の内容に忠実な装丁(というより、作品に対して勝手に特定の強いイメージを与えないような装丁)の本も残してほしい。ブームだからといって一様にどこの出版社も(岩波以外)新バージョンに変えてしまうのだから、あまりいい気持ちはしない。


こういう動きを見ていると、商品としての文学の扱いの限界を感じる。こうやって、読者に媚びたり(嫌な言い方だが)、時代に迎合したり(これまた嫌な言い方だが)しなければ文学は生き残れないのか、とも思ってしまう。

「真に美しいものは、何の役にも立たないものに限られる。有益なものはすべて醜い。何らかの欲求の現れだからだ。」

と、ゴーチエのこんな言葉にもすがりたくなってしまう。
文学や出版をめぐる今の実情に即していないのは、重々承知の上で。



※Amazonの商品ページではまだ昔の表紙。いつから変わるのだろう。

  1. 2010-12-19 Sun 01:33|
  2. 文学

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