スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

  1. -------- -- --:--|
  2. スポンサー広告

或る作品を読んでの感想


「……つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのやうな人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と藝術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかといふ點にあるといひ得るであらう。」
三木清『人生論ノート』




昨今僕の周りでもファンの多い、某人気作家のデビュー作を読んだ。
僕が読んだ彼の作品はこれで二つめ。
これだけで一人の作家に関してどうこういうのが適切でないことはわかっているが、かと言ってこれ以上彼の作品を読む機会があるかどうかも怪しいので、今感じたことを書く。


まず、彼は、冒頭に掲げたような「誰でも一つは書くことができる」タイプの小説を書く作家だと思った。それを一つではなくいくつも書いているらしい。(少なくとも僕が読んだ二作品はそうだった。)しかし、それでは同じ作品が量産されるだけなので、作品間の差異化を図る何かが必要となる。彼の場合、それは「幻想」らしい。どうやら、彼自身の思い出に様々の違った幻想を付け加えて一つの作品とするのが、お決まりのやり方のようだ。

そのせいか、幻想と現実とのつながり方に、非常にちぐはぐな印象を受ける。これが幻想的リアリズムの手法だと主張されれば、なるほど確かにそうかもしれないが、なんとなく「ずるい」。現実では片付け難い問題を解決するためだけに「何でもアリ」の幻想を持ち出しているように思えてならない。

それから、文体。なんとなく古風な感じを与える知的な言い回しを散りばめてはいるものの、それら全てが本当に必要かと言われれば、いらないものも多いように思える。いらない部分を削いでいったら、十分の一くらいの文量に収めることができるのではないか。しかも、それによって作品の世界観が失われるかと言えば、必ずしもそうはならない気がする。この独特の雰囲気を残したままに余計な部分を削ぐことは、大いに可能ではないか。

読み始めてしばらくは、そんなムダの多い妙な言い回しに苦痛を感じた。が、中盤になって話の展開が加速してくるにつれ、そういう言い回しも減って俄然面白くなった。しかし、終盤にさしかかって突然、幻想的な非現実の世界が見え隠れし、なんだこれはと思っているうちに、終わってしまった。問題の解決はその非現実の世界によってなされ、いまいち納得のいかない気分で読み終えた。(僕は。)

こういった作品を好きな人が多いのは理解できる。僕自身、これらの作品の個性的な登場人物や独特の世界感は好きだった。自分もこの世界に混ざりたい、というのが率直な感想。それだけに、上に挙げたようなことを余計残念に思う。

全体としては、良くも悪くも、今っぽさを感じた。ざっくり言ってしまえば、ライトノベルの影響を色濃く受けているな、という印象。近年はこれに限らず、そういう本がどんどん増えてきている。決して悪いとは思わないが、今後本格的にこういう作品が主流になっていくのだろうと思うと、少し寂しい気もする。

とは言え、ここ数年で時代としての色がはっきり感じられるようになってきたのも確か。この時代の文学は、100年後の国文学史に於いて何という名でカテゴライズされるだろうか、などと想像を巡らすのも面白い。
  1. 2011-03-22 Tue 16:26|
  2. 文学

<<新しいエントリ| トップ | 古いエントリ>>
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。