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新潟県加茂市の宗良親王歌碑

加茂市宮寄上、長瀬神社参道脇にある宗良親王の歌碑を見てきた。

場所はここ↓


大きな地図で見る

IMG_3077.jpg
↑歌碑

歌碑には

山にても猶うきときのかくれかはありけるものを岩のかけ道

という歌が記されている。
これは親王の私家集である『李花集』に収められている歌である。
歌碑には「ふかき山にうつろはせ侍りし時」という詞書きも記されているが、これは歌碑にするにあたって省略されたものであり、『李花集』には「山里にしのびてこもりゐ侍りし頃、猶みち行きぶりのたよりもしげくなど申して、ふかき山にうつろはせ侍りし時よみ侍りし」とある。

宗良親王の歌業に関する論はそう多くはない。
この地にこの歌碑が建てられたのは、おそらく笠原喜一郎氏の説に従ったものだろう。
笠原氏は加茂市出身の郷土史家で、著書に『李花集の研究』(錦文書院、1956年)と『吉野朝と宗良親王の生活』(東洋館印刷所、1963年)がある。
『李花集の研究』の中で笠原氏は、「岩のかけ道」とは岳山城へ登る道のことであるとしている。

岳山城は宮寄上の熊野山にあった山城である。熊野山は加茂川(大俣川)に面して切り立った岩壁が特徴的な山で、川にかかる橋を渡ると例の歌碑や長瀬神社の社号標があり、そこから上へ登ると長瀬神社の社殿があり、さらに御神木の脇を抜けて行った所が岳山城跡である。

IMG_3093.jpg
↑熊野山

IMG_3084.jpg
↑左に歌碑、右に長瀬神社社号標。

笠原氏によれば、宗良親王は正平10年(文和4年、1355年)の加茂陣ヶ峰および長岡蔵王堂の戦(越佐史料第二巻p.578参照。こちらから見られます。)の後、岳山城に移ったという。(笠原喜一郎「宗良親王及新田義宗公の越後に於ける戦蹟年譜」『高志路』113号、1944年11月)

宗良親王の足取りについては諸説あり、正確なことは僕にはわからない。
ただ、こうして郷土で宗良親王のことが語り継がれていたという事実は確かにあるわけで、それが忘れられてしまうのは寂しいことだと思う。
ためしにGoogleなどで検索してもらえばわかると思うが、この宗良親王歌碑については全くと言ってよいほど知られていない。

嶽山寺や長瀬神社について書かれたサイトはあるし、そうしたサイトでは神社の社号標とともに歌碑が写真に写りこんでさえいるが、その歌碑については触れられていないようである。
これをきっかけに少しでもその存在が知ってもらえたらと思う。
  1. 2011-09-07 Wed 02:24|
  2. 文学

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