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詩人テオフィル・ゴーチエ

完全無欠なる詩人
フランス文学における完璧な魔術師 
わが敬愛し崇拝する
師にして友なるテオフィル・ゴーチエに
最も深い謙虚な気持ちをもって
これらの病弱な花々を
私は捧げる


(シャルル・ボートレール『悪の華』扉)


こんにちは。
僕の好きな詩人にテオフィル・ゴーチエThéophile Gautier(1811-72)という人がいます。
たぶんこの人を知っている人は殆どいないと思います。
たとえ知っていても、「詩人として」知っている人はさらに少ないのではないでしょうか。
今日はそんなテオフィル・ゴーチエの詩が少しでも注目されたらいいなあと願いつつ、長々と彼のことを紹介してみようと思います。

◆詩人ゴーチエとは何者か?
 
さて、殆ど知られていないゴーチエさんですが、ここ数年でほんのすこーしだけ知名度が上がった気がします。
なぜかというと2006年に岩波文庫から『モーパン嬢』という彼の小説の新訳が出版されたからです。
実際、出版後しばらくしてからウィキペディアにはゴーチエの記事が作成されました。


また、少しフランス文学をかじったことがある人ならばゴーチエについて、「高踏派の先駆的詩人」であるということはご存知かもしれません。
しかし、実際の詩を知っているかというと、やはりほとんど知られていないようです。

それはなぜか。
知る術がないからです。
というのも、彼の詩集は現在日本国内では出版されていないのです。
昔は平凡社の世界名詩選シリーズに代表的詩集「七宝とカメオ」がありましたが、現在は絶版。
現在書店で入手出来る本で彼の詩に触れられるのは『フランス名詩選 』(岩波文庫)等のアンソロジーだけ、それも収録されているのはほんの数編です。

これでは詩人として知られないのも無理はありません。


詩人として知られていないという状況はボードレールがゴーチエのことを「詩人としてほとんど知られていない」と言っていることから、当時も同じだったようです。
にもかかわらず、ゴーチエが第二帝政期における最有力作家とまで見られていたのは、ほとんどその優れた批評活動によるものです。
ジョルジュ・サンドが「わざわざパリまで芝居を見に行くよりもゴーチエの芝居評を読んだほうが楽しめる」と言っているほど彼の批評の描写力は優れていました。

このように当時から一般には詩人として認識されていなかったのですが、記事冒頭のボードレールの言葉からもわかるとおり、同業者である詩人たちからの支持は絶大だったのです。



◆ゴーチエの芸術論

ゴーチエの功績で特に有名なのが小説『モーパン嬢』の序文における芸術至上主義宣言です。
この序文は序文としては異例の長さ(岩波文庫版においては約80ページ!)で、芸術論が展開されています。
この中でゴーチエは、

「花のない世界を望む人がいるだろうか。私だったら薔薇を残してジャガイモをあきらめる」

とか、

「真に美しいものは、何の役にも立たないものに限られる。有益なものはすべて醜い。何らかの欲求の現れだからだ。そして人間の生理的欲求は、貧相かつ脆弱な本性と同様に、不潔で嫌悪すべきものだ」

さらには

「ラファエロの真正な絵あるいは裸体の美女を見るためならフランス国民および市民の権利を喜んで放棄しよう」

とまで言い切っています。

つまり何が言いたいかというと

「芸術最高だぜ!ヒャッホウ!」

ってことです。(冗談。)


いちおうマジメに説明すると、芸術は手段ではなくそれ自体が常に目的として存在すべきであり、社会的な効用性のために用いてはならない、ということです。

これがゴーチエの根本的な思想。

その考えが詩にもたーくさん現れています。
これが同業者に受けるんだなぁ。
僕もはじめてこれ読んだときはシビレましたもの。




◆職人芸術・詩集『七宝とカメオ』

さて、そんなゴーチエの芸術至上主義思想がふんだんに盛り込まれた詩集が代表作『七宝とカメオ』Émaux et Camées(1852)。
訳者によっては『七宝螺鈿集』とも訳されます。
ボードレールはこの詩集について

「絵画と音楽という二重の要素の融合により、旋律の力強さ・豊かさにより、また厳正以上とも言うべき脚韻の、規則的かつ整然とした王者の風格により、およそ人の収め得る限りのあらゆる結果が現れている」

と超絶賛しています。

ゴーチエはもともと画家を目指していたこともあり、感情的な美よりも「形」や「色彩」、「光沢」といった外形の美にひかれていたようです。
ゴーチエによれば、さまざまな芸術は皆共通の理念を追い求めるものであるから、詩人が言語を駆使することによって絵画、彫刻、金銀細工、陶磁器などのいずれの芸術をも自在に詩歌の領域に移し入れることができるそうです。
なんだかすごいハチャメチャなこと言っているように聞こえますが、僕はこれ読んで感動しましたよ。ホントに。
たぶんゴーチエが生きていた当時に彼を崇敬していた多くの詩人もこんな気持だったんだろうなあとしみじみした覚えがあります。



◆詩論詩『芸術』

ゴーチエの詩人としての精神を表した典型的な詩論詩と呼ばれるものが『七宝とカメオ』の最後に収められています。
その名も『芸術』L’art。
これは詩論にとどまらず、広く芸術論をうたいあげているフランス詩の傑作のひとつです。

ちょっと長いのでここに載せるのはやめておきますが、興味のある方は図書館や古書店で

斉藤磯雄・中村真一郎訳  平凡社
『世界名詩集12 ゴーチエ・七宝とカメオ ネルヴァール・幻想詩篇その他』 

を探して読んでみてください。 





◆さいごに

ボードレールは『ロマン派芸術論』の中のテオフィル・ゴーチエ論第五章を次のように結んでいます。

「いやしくも詩歌を愛する者はことごとくこれらの小詩編(「七宝とカメオ」の中の詩)をそらんじている」

しかし、現在、その詩を読む者はほとんどいません。
なぜでしょう。
それはおそらく、ゴーチエの詩の特徴そのものに原因があると思います。
つまり感情を排した「純粋美」、「フォルムの完璧性」、「硬質の美」といったゴーチエ詩の特徴をもって、ある種世俗の者を寄せ付けないような冷たいオーラを放っているのです。
これが、これらの詩があまり一般に浸透しない所以でしょう。

でも、はたしてそれはゴーチエにとって不幸なことでしょうか?
ここで『モーパン嬢』序文を思い出してみましょう。
芸術はただ芸術そのもののために存在し、社会的効用性のためにあってはならない。
詩によって有名になるということよりも、自らの理想とする美を求めることそのものが彼にとっての最上級の喜び。
そして、彼のいう理想の美とは、ほかならぬ『七宝とカメオ』で求めた美しい詩句の数々……。


く〜!かっこいいぜゴーチエ!
たぶん彼は幸せでしょうね。
他人を気にせず自分の作りたいものを作り書きたいことを書く、それが満足のいく出来栄えだったら詩人にとってこれ以上の幸せはありません。


だから僕も、真夜中にこんな長ったらしい文章書いていても幸せです。
誰も読まないと知っていても幸せです。
これ書いたせいで明日寝坊しても幸せです。


たぶんね……。





<追記>
今回は詩集は『七宝とカメオ』しか取り上げていませんが、決してゴーチエが生涯に出した詩集がこれだけというわけではありません。
時々、「ゴーチエが生涯に出した詩集は『七宝とカメオ』だけだ」という話を聞くのですが、それは誤りです。
他にも『アルベルチュス Albertus』、『死の喜劇 La Comédie de la Mort』、『エスパーニャ España』などの詩集を発表しています。
ただ、上のような勘違いが出てくる事自体、ゴーチエの詩が知られていないという状況をよく表しているともいえますね。

  1. 2010-03-08 Mon 02:20|
  2. 文学

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