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読んだ小説の感想(2014年9月分)

9月分の読書メモ。

光瀬龍 『百億の昼と千億の夜』
泉和良 『エレGY』
谷崎潤一郎 『吉野葛・盲目物語』
内田百閒 『第一阿房列車』
菊地秀行 『風の名はアムネジア』
ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』
一肇 『くくるくる』
山田詠美 『学問』
ヴィクトル・ユゴー 『死刑囚最後の日』

……の9冊。

光瀬龍『百億の昼と千億の夜』(ハヤカワ文庫JA)
宗教は、それ自体を目的とした純粋に自律する存在となりえるだろうか。救いを求めて宗教にすがるならばそれは手段にすぎないのであって、本作に描かれる宗教の真実と本質的には同じではないか。両者の差は単に、個人の救いのためか、全体の救いのためかという点だけであり、オリオナエの叫び(p.96)も、その違いに対するものだ。神と惑星開発委員会との違いも、言ってしまえばそれだけのもの。そこに絶対的な正しさなど初めからないのかもしれない。正しさが相対的なものにすぎないならば、一人残ったあしゅらおうはどこへ向かえばよいのだろう。

泉和良『エレGY』(星海社文庫)
フリーゲームサイトを営む「ジスカルド」こと「泉和良」が、ファンの少女「エレGY」との関係に葛藤する恋愛小説。ファンが慕っているのはジスカルドであって現実の自分ではない、という観念が主人公を悩ます。作品を通して見える作者と現実の作者との乖離は、太宰治『恥』等にも見られる題材だが、本作の場合、更にこの主人公が著者の名を冠する(しかもこのフリーゲームサイトは実際にある)という特異な構造をもつ。これは現実の「泉和良」なのか、或はこれも「ジスカルドの魔法」なのだろうか。カバー記載の著者紹介も含めて、作品の全体を成すと捉えたい。

谷崎潤一郎『吉野葛・盲目物語』(新潮文庫)
◆吉野葛……吉野の自然風景や歴史的背景が魅力的に描かれるのに対し、その人里はあくまでも貧しい田舎として描かれる。母の面影に近づくほどに、美しいだけの場ではなくなっていく。しかし、ラストは美しい。吉野だからではない。目的を果たした津村の清々しさに、美しさがある。ところで、作中に「葛」と「国栖」との違いを説きながら、題は何故「葛」なのだろう。◆盲目物語……語りの文体と、奥書の存在が、真実らしさを高めている。触覚で描写される女性の美しさはさすが谷崎といったところ。語り手が盲人である第一の理由はそれなのでは……?

内田百閒『第一阿房列車』(新潮文庫)
鉄道の形態もシステムも変わった現在、百閒式の鉄道旅行はできるのだろうか。そしてそれは『阿房列車』のような作品を生む旅になり得るのだろうか。少なくとも一等車はないし、食堂車も絶滅危惧種。宿も駅の紹介ではなく、ネット予約が主流だろう。時代の変化が悪いと言うのではない。ただ、現代なら百閒先生はどんな旅をするか、ということが気になる。その作品を読んでみたい。

菊地秀行『風の名はアムネジア』(ソノラマ文庫)
ある日突然、人類がそれまでのすべての記憶を無くした世界。その3年後を描くSF。政治哲学における仮定的概念である「自然状態」が、全人類の記憶喪失という特殊な状況によって形成されていると言える。「万人の万人に対する闘争」が続く地域もあれば、「リヴァイアサン」の萌芽が見られる地域もある。地球人類がここからどのような道を歩むかが最終的には重要となるわけだが、その先は描かれない。おそらく、ニューオリンズの歌い踊る人々は希望の象徴なのだろう。しかし、いかなる希望か。元のような世界に至るそれではないことは確かだろう。

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳、集英社文庫)
「存在の耐えられない軽さ」という表現は作中に二回ある(p.156,324)。そのどちらもがサビナについて。サビナは「重さ」を厭う(p.147)が、重荷が消失した時、裏切りの対象が無くなり(「すべての裏切りのゴール」)、それ故にその「軽さ」(≒「空虚さ」)は耐え難いものとなる。それでもサビナは最後まで「軽さ」を求める(p.344)。まさに冒頭の問い「軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか?」(p.9)が明確な答えを持ち得ないという点に、サビナの苦難の根源はあり、生涯を通して両極を行き来することとなっている。
「幸福とは繰り返しへの憧れである」(p.374)と、テレザは言った。テレザとトマーシュを「繰り返しに基づく生活で包」んでいたカレーニン亡き後、幸福の象徴としての繰り返しは「となりの町へときどき一緒に出かけ、そこの安ホテルに泊まった」(p.157)ことだったのではないだろうか。彼女にとって、繰り返しは幸福であり、それは適度な「軽さ」である。「軽さ」と「重さ」との間を彷徨するサビナには、晩年の二人(幸福な繰り返しの只中で終わりを迎えた二人)が、どう見えただろうか。

一肇『くくるくる』(ガガガ文庫)
何度も自殺を試みるも死ねない少女「なゆた」と、彼女をストーキングして記述する少年「語木」の話。「自分の大事な人が次々に先に死んでいくの。みんな向こうの世界に行っちゃって、自分だけこのどうしようもない世界に取り残されるの」というなゆたの言葉は、残される者の哀しみを言い表す。けれど、残される者もいつかは残し去る者になる。語木との関係の変化や新たな死別の経験を通して、彼女もそのことに気付いていくのだろう。死はいつも、残される側によって記述されるもの。残す者と残される者との関係性は消し難く、死はそこに常に重い。

山田詠美『学問』(新潮文庫)
思春期のうちにこれを読まなかった(読めなかった)ことを強烈に悔やんだ。もちろん、今読んでも文句なく素晴らしいと感じたが、あの頃に読んでいればきっと、いろいろなことが大きく変わっていただろう。それだけの力がある作品だと思う(『ぼくは勉強ができない』も、そうだ)。余談だが、読み終わってすぐに最初から見直し、喪主の伏線に気付いてジーンと来て、雛人形の伏線に気付いてドキッとした。

ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』(豊島与志雄訳、岩波文庫)
後付の「序」にある通り、死刑制度に対する抗議が目的の作品。そのため、死刑囚の人物像を限定するような記述は極力排され、特殊ではない、一般的な事例として読めるようになっている。しかし、そのせいでどうにもこの死刑囚に感情移入することができない。悲劇的な内容ではあるが、悲劇的なるもののサンプルとして典型例を見せられているような、傍観的な態度でしか読めなかった。要するに主人公の顔が全く見えてこないのだ。これではいわゆる「第三人称態の死」としてしか把握できず、問題意識を生ずるほどの読後感情を惹起できるのかも、疑問。トルストイの『イワン・イリッチの死』のようなものを期待して読んだが、正直に言って、その点は期待はずれだった。
  1. 2014-10-01 Wed 02:49|
  2. 読書メモ

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