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良寛筆「あきのゝ」所載の万葉歌

良寛の遺墨に、190首の万葉歌を抜書きした「あきのゝ」(安田本)がある。
概ね『万葉集』の巻の順で歌が挙げられている(例外も多い)が、そのことによって佐佐木信綱『萬葉清話』(靖文社、1942年)は、「こう順序を逐つてゐるからには、全く記憶にのみよつたものとは思はれない」とする。ただ、そうとは考え難い例がいくつかあるので、以下メモ書き程度に記す。

「あきのゝ」掲載歌には、現存する『万葉集』諸本の本文とは異なるものが多く見られる。
一首目に記された『万葉集』巻1・7番歌からして、
  あきのゝのみくさかりふきやとれりしならのみやこのかりいほりそおもふ
とある。これが『万葉集』本文には、
  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念
とあって、仮に寛永本の訓みを示すと、
  アキノヌハ ミクサカリフキ ヤトレリシ ウチノミヤコノ カリイホシソオモフ
となる。「あきのゝ」の第四句は、『万葉集』本文を見ていたならばあり得ない訓みである。「兎道」はどうあっても「なら」とは訓めないし、『万葉集』諸本に異同もない。諸本・諸注釈いずれも「うち(うぢ)」と訓み、「なら」と訓むものは見あたらない。むしろ、「全く記憶にのみよつたもの」と考えないことには、説明がつかないだろう。そのほかにも、

・五首目(巻1・23番歌)第五句「たまもかりまして」とあるが、『万葉集』では「珠藻苅麻須」(※1)とあって訓は「タマモカリマス」。

・九首目(巻1・44番歌)第三句「いさみのやま」とあるが、『万葉集』では「去来見乃山」(※2)とあって訓は「イサミノヤマ」。

・十一首目(巻1・53番歌)第二句「おほみやつか」とあるが、『万葉集』では「大宮都加」とあって訓は「オホミヤツカ」。

・二十四首目(巻5・822番歌)第一句「わかやとの」とあるが、『万葉集』では「和何則能尓」(※3)とあって訓は「ワカソノニ」。

と、同様の例は枚挙に暇がない。こうした例は良寛が『万葉集』を手元に置いて書き写したのではないことを明瞭に示す。特に二十四首目の「園」と「宿」との違いはこれを明証するだろう。「わが宿」は『万葉集』中に七十二例あるのに対して「わが園」は僅か五例を数えるのみである。二十一代集においても「わが宿」は二百例以上あるのに対して、「わが園」は僅か四例。歌語としては「わが宿」のほうが遙かに一般的と言える。就中「わが宿の 梅」と続く歌さえ『万葉集』には三例ある。「わが園に」であるはずのこの歌を良寛が「わが宿の」と記したのは、こうした状況がもたらした記憶違いによると考えられるのである。
つまり、「あきのゝ」は、良寛がどこかで読んだか聞いたかした歌を記憶していて、後にそれを書き記したものと考えられる。
どこで何を見たかまではわからないが、「あきのゝ」掲載歌の中からそれを考えさせる例をいくつか記しておく。

①七首目(巻1・40番歌)第四句「あかものすそに」。
『万葉集』本文は「珠裳乃須十二」で、諸本「タマモノスソニ」と訓み、注釈書類もほぼ同じだが、賀茂真淵『万葉考』と上田秋成『金砂』は「あかものすそに」。

②八首目。巻1・41番歌第一句「たちはなの」。
『万葉集』本文は「釼著」(※4)で、諸本「タチハキノ」「クシロツク」の訓を見るが、広瀬本は「タチハナノ」(或いは「タチハナク」か)を墨消して右に「クシロツク」。

③十五首目。巻1・65番歌第五句「みれとあぬかも」。
『万葉集』本文は「見礼常不飽香聞」(※5)で、諸本「ミレトアカヌカモ」の訓を見るが、寛永本は「ミレトアヌカモ」。

④二十五首目。巻2・123番歌第五句「みたつらむか」。
『万葉集』本文は「掻入津良武香」で、諸本「ミタリツラムカ」(元暦校本は「かきいれつらむか」)の訓を見るが、北村季吟『拾穂抄』と荷田信名『童蒙抄』は「みたつらむか」。

⑤二十七首目。巻2・133番歌第五句「わかれしくれは」。
『万葉集』本文は「別来礼婆」(※6)で、諸本「ワカレキヌレハ」、寛永本は「ワカレキレハ」と訓むが、上田秋成『楢の杣』は「わかれしくれは」。

このうち、②④についてはこの訓を採る本を見て記憶していたというよりは、前掲の記憶違いの例に含めていいかもしれない。しかし、①③⑤については見て記憶する段階で既にこの歌句であった可能性が高いだろう。
③は寛永本(とその後印本である宝永本)に特徴的な訓(※7)を反映するが、①⑤はこれと異なっている。近世に流布した製版本の『万葉集』(寛永本・宝永本)を見た可能性は高いが、それのみであったとは考え難いのである。①の「あかも」は『万葉考』以前には見られない訓であり、後には本居宣長『玉の小琴』がこれを否定し、『金砂』を除けばほぼこれを採る注釈書はない。ただし、『楢の杣』の注部分に「赤裳のすそは波にぬれつゝあらんと先云」とあることは注目できる。⑤の「わかれしくれは」も『楢の杣』の独自訓(※8)である。
良寛はこうした注釈書、或いはその訓を反映した抄出本の類を見て、これらの歌を記憶していたと推定できるのではないか。



※1 「苅」、京都大学本「刈」。
※2 「去」、類聚古集「者」見せ消ち、右に「去」。
※3 「何」、京都大学本「我」。
※4 「釼」、神宮文庫本「剣」。
※5 「飽」、紀州本「記」。
※6 「婆」、類聚古集「波」。
※7 活字付訓本に「アラヌ」あって寛永本・宝永本の訓はこれを受け継ぎ、旁註本が「アカヌ」と改め、校異本がこれを受け継ぐ。
※8 ただし、契沖『代匠記』初稿本の書き入れには「ワカレシクレハ」が見える。


なお、「あきのゝ」の全体が見られる資料として次のものがある。
 ・平野秀吉『良寛と万葉集』(文理書院、1966年)
 ・黒野清宇、川口霽亭『良寛書 あきのゝ』(中央公論美術出版、1991年)

また、安田靫彦旧蔵「あきのゝ」とは別に、竹内俊一旧蔵「あきのゝ」があることが知られている。所在不明となっていたそれが近年発見され、下記の本で紹介された。
 ・池田和臣、萬羽啓吾『あきのの帖』(青簡舎、2012年)
  1. 2014-12-10 Wed 04:02|
  2. 文学

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